体操クラブの新エース・中瀬卓也
北京五輪でメダルを獲ってきます
8月に開催される北京五輪の体操競技日本代表のメンバーに、徳洲会体操クラブから中瀬卓也選手が選ばれた。5月24日に行われた壮行会で同選手は、「北京五輪では必ずメダルを獲ってきます」と力強く宣言した。その人となりを、ほんの少しだけだがご紹介しよう。
同級生のバク転を見て体操を始めた
北京五輪の体操競技日本代表の決定競技会を兼ねた5月の「第47回NHK杯」には、同クラブの米田功、水鳥寿思、桑原俊、田中和仁、西村隼の5選手も出場したが、僅差で涙をのむ結果となった。 徳洲会体操クラブの新エースとして、北京五輪に出場する中瀬卓也とはどういう選手なのか。本人と立花泰則監督に、話を聞いた。
中瀬は滋賀県大津市の出身。小学校時代の彼は、自身によると「落ち着きがなく、授業中に歩き回るような問題児でした」。
そんな彼が体操と出会うのは小学校4年生のとき。サッカー部に入っていた中瀬の目の前である日、同級生が“バク転”を披露した。
「カッコいい!」と思った中瀬は、すぐに真似をしてみた。「首の骨を折りかけたけど、我流でできました。その友人に誘われ、地元の栗東ジュニア体操クラブに入ったんです。格別、サッカーがうまいわけじゃなかったし、小学生でバク転ができるほうが派手で目立つから体操にしたんです」
入団したクラブでは、毎回3時間の練習に週2回通い、基礎から学んだ。風邪で39Cの熱が出て学校を休んだときでも、「練習に行くと言ったら母に止められた」というほど熱中したという。
「体操は、小学校低学年から始めるのが理想です。中瀬の場合は少し遅いスタート。彼が学んだのは、選手育成コースだったので練習内容は充実していたはずです」(立花監督(旧))
五輪出場のジンクス インターハイ2連覇
5年生になって以降は、練習が週5回。県立日吉中学校に進学してからも、体操漬けの生活だった。1997年には、全国中学大会で個人総合4位の成績を収める。
「遊びたい盛りでしたが、もっと体操がうまくなりたかったので、練習は休みませんでした。体操に対して、子どもなりに価値を見いだしたんでしょうね」
高校は県立栗東高等学校に進学。クラブに通う一方で高校の体育部にも所属し、インターハイなどに出場した。99、2000年には、インターハイの個人総合で2連覇。この記録は、名選手の塚原光男など過去に数名しか残していない。米田や水鳥も成し遂げていない快挙だ。「インターハイを2連覇した者は五輪出場する」というジンクスを、中瀬が証明したことになる。
「2年生のときに出場したら、最後に『1位やで』と言われてびっくりしました。翌年は、連覇できなかったらカッコ悪いと思っていたので、優勝できてうれしかったです」
ちなみに00年の全日本ジュニアでは、個人総合に加え種目別のゆかとつり輪でも優勝している。
大学進学は、冨田洋之(北京五輪・体操男子日本代表主将)がいる順天堂大学からも誘われたが、日本体育大学を迷わず選んだ。中学時代から教わっていたコーチが同大学出身で、合宿に参加していたことから親近感もあった。具志堅幸司監督(現北京五輪・日本代表監督)が率いる体操部には、2級上に、後に徳洲会で仲間となる水鳥寿思と田原直哉(現徳洲会スキークラブ)が在籍していた。
4年前の悔しさが代表選手への執着に
大学時代の中瀬は個人総合で、1年生のときにNHK杯18位、全日本選手権30位。2年生でNHK杯21位、全日本選手権11位と順位を上げる。3年生になると全日本学生選手権4位、全日本選手権5位、種目別ゆかでも2位に入賞するなど、好成績を収めた。
大学最終年には、アテネオリンピックという節目を迎える。五輪2次予選個人総合11位、続く最終選考となったNHK杯8位と奮闘。日本代表にはあと1ポイント及ばなかったが、“オリンピック出場”の手ごたえを感じた。
「この悔しさが、五輪への執着心を生みました。4年前とは、まったく気持ちが違います。“行けるときには行けるやろ”という感じで、“ポイントを狙う”ことも当時は理解していなかった」と、中瀬は振り返る。
「一つの失敗で追い込まれると、選手はどうしても力んでしまいます。余分な力が抜けるようになってから、中瀬は演技が安定しました。ミスをした後も、集中力を切らさずスムーズに気持ちを切り替えることができています」(立花監督(旧))
卒業を控えた中瀬は、尊敬する米田や水鳥たちが所属する、徳洲会体操クラブへの入団を選んだ。
「米田さんも水鳥さんも、ひたすら練習に打ち込んで自分の形をつくり上げていく人たち。そんな先輩たちからは、技術だけでなく競技者としての姿勢も学びました」
とりわけ、米田に対する憧憬の念は強い。その理由を次のように語る。
「練習が量だけでなく質もすごい。本番の試合でもビシッと決める。選手としてのストイックな姿勢に加えて、人間としても尊敬しています。米田さんが引退を決意した今回のNHK杯での演技には、鬼気迫るものがありました」
現在、所属選手たちは、練習拠点である「徳洲会スポーツセンターかまくら」(神奈川県)で、午前中から夕方まで練習に励む。その練習は、選手の自主性を尊重した内容の濃いものだ。
「体操はクリエイティブな競技です。スポーツというフィールドの芸術といってもいいでしょう。命懸けの練習を重ねた選手たちが、末端の神経までコントロールして最高の技を見せる。コーチは、選手の創造性と努力を支える存在でしかありません。自らの努力の積み重ねが、明日の栄光につながるのです」(立花監督(旧))
「妥協してはいけない」と徳田理事長から激励
五輪代表選考会を終えた数日後、中瀬は徳洲会体操クラブのメンバーとともに、徳田虎雄・徳洲会理事長を訪ねた。徳田理事長は全員にねぎらいの言葉をかけ、代表選手に選ばれた中瀬に向かっては、こう話したという。
「練習は、絶対に妥協してはいけない。人生は芸術と同じで、積み重ねが大切です。つらければ1週間、私の体と代わってあげよう」
徳洲会体操クラブでは、可能な限り病院や施設を慰問に回る。
「僕たちが訪れると、喜んでくださる方々がいます。僕のモットーは、人ができないことをやること。北京五輪でも結果を残して、少しでも皆さんに喜んでいただけるよう頑張ります」と中瀬。
これから日本代表チームは、8回の国内合宿を経て7月末に北京に向けて出発、8月8日の開会式の翌日に予選会に臨む。
「試合には、日本代表としてだけでなく徳洲会体操クラブの代表だという意識で臨みます。ライバル中国は、強敵である上に地元開催。アテネ五輪に続くプレッシャーはありますが、2連覇を狙っていきます。しっかりと自分の演技をして、結果を残して日本に帰りたいと思います」
そう言って胸を張る中瀬。皆さんも、ぜひ応援してください。
~2008年記事~